壱岐・対馬の旅(by 早島 潮さん)
2004年11月28日〜11月30日まで壱岐・対馬の旅に出かけてきた。壱岐では元寇の役で討ち死にした少弐資時を祀る壱岐神社、左京鼻、はらぼけ地蔵、猿岩、砲台跡、いるかパーク、岳の辻展望台、焼酎工場、雲丹工場を駆け足で廻った。
意外であったのは壱岐の島は長崎県下で諫早に次いで二番目の農地を持つ米所であり、麦焼酎の発祥の地だということであった。対馬が山また山の連なる男性的な島であるのに対して、壱岐は山も低く女性的な島であったこと。魏志倭人伝にも一支国と記載されている古くから歴史に登場する大陸との交易の中継基地でもあったこと。また元寇の役では島民が沢山殺戮された悲しい歴史を持っていること。
島内各所にある入り組んだ漁港には海の幸が豊富に水揚げされること。そして何よりも美しい自然が残っていることなど期待以上に旅情をそそられる良い島であった。
壱岐の郷の浦港からジェットフォイル船で対馬の厳原港まで約1時間の距離であるが、この船はなんと時速80?の高速船である。対馬も壱岐同様、長崎県下の島であるが、どちらかといえば福岡県との結びつきが強い。船便は何れも福岡の博多港と結ばれ、空の便も対馬と長崎間が一日2往復であるのに対して、対馬と福岡間は一日5往復である。県外からの旅行者にとっては何故長崎県に所属していなければならないのかとの疑問が起きる。
対馬では万関橋、和多都美神社、烏帽子岳公園、韓国展望所、上見坂公園、小茂田浜・元寇史跡、椎根の石屋根を駆けめぐった。
対馬は魏志倭人伝にも「土地山険にして深林多く、道路は禽鹿(きんろく)の径(けい)の如(ごと)し。千余戸あり。良田無く、海物を食して自活し……」と活写されている如く山の連なっている島でその90%以上が山地という地形であるから、トンネルが多い島である。それだけに自然環境がよく保存されていて動植物の宝庫ともなっている
対馬はもともと占部の阿比留氏が在庁官人として支配していたのを鎌倉時代以降、宗氏がこれを追い爾来宗氏の領国となった。
宗とは朝鮮渡来の帰化人かなと思っていたが、これは認識違いであった。鎌倉時代の武士で惟宗氏を宗と略したもののようである。対馬宗氏の祖は平知盛の遺裔ともいわれる宗知宗とされ、対馬守護太宰少弐氏の守護代を勤めていた時、その意に従わない在地官人の阿比留氏を追ったのである。
元寇の役では身を挺して防戦にあたり、文禄・慶長の役でも先陣を務め、秀吉から一万石を得ている。関が原の戦いでは豊臣方についたが、江戸幕府の朝鮮との国交回復に奔走し、1609年朝鮮王光海君との間に通商貿易上の諸規定を定めた慶長約定の締結に成功した。爾来江戸時代を通じて朝鮮貿易を独占した。また幕府から朝鮮通信使の接待役を命じられ、対馬藩主として10万石の格式を与えられた。
そして現在対馬には宗という姓の人は住んでおらず、宗氏の当主は現在柏市で開業医を営んでいるということである。逆に阿比留氏は沢山住んでいるということである。また「一」という姓があってこれを「にのまえ」と読ませているという。
「一」という珍名が対馬の姓だとは知らなかったが、ガイドが珍名を幾つか教えてくれたので記しておきたい。「九」を「とおちか」「十二月三十一日」を「としのおわり」と読ませる姓があるという。筆者の知っている名では「八」を「わかつ」というのがあったが苗字としてあるかどうかは知らない。
かつがれているのではないかと思いウエッブで検索してみると「一」と「十二月三十一日」はどうも実在の姓らしい。
ところで阿比留という姓も対馬独特の苗字であるが、調べてみると「阿比留文字」というのがあってこれは「神代文字」の一種であり、朝鮮のハングルの元祖になっているらしいという説があるのを知った。大陸との交流が古くからあった島だけに文化的にも研究すれば面白い材料は沢山ありそうである。
対馬の旅では烏帽子岳から俯瞰した浅茅湾の光景は印象的であった。360度展望できるヴュ−ポイントからの展望は瀬戸大橋が掛けられる前の鷲羽山からの俯瞰とイメージが重なった。
今まで見た光景の中でもこの景観は筆者の頭の中では一、二を争う程の素晴らしさであったと思う。下に示すのは対馬の観光案内から戴いた烏帽子岳から俯瞰した浅茅湾の写真である。
筆者のイメージの中にある鷲羽山から俯瞰した瀬戸内海の光景は瀬戸大橋のために壊されてしまっていた。瀬戸大橋が出来る前の写真を見つけたので掲げておこう。実際に写真で比較してみると浅茅湾と瀬戸内海では随分異なっているが、海面に島々が浮かびどこまでものどかな雰囲気は筆者には共通性のあるイメージなのである。
対馬の郷原町を歩いていて感心したことがある。町中の道路は日本のどこの道路にもあるような道路標識があって横断歩道には縞模様の白い線が引かれている。小学生が二、三人この横断歩道を横切った。横切る前に彼等は歩行者が通りすぎるのを待って止まっている車に向かってお辞儀をした。そして渡り終わると道路の方を振り返って、再びお辞儀をしたのである。このような光景を数回目撃したのでガイドに聞いてみると、対馬の小学校では礼節ということを重視して、人から受けた好意に対しては感謝の気持ちを形で示しなさいという教育をしているらしい。
自分達が安全に横断歩道を渡ることができたのは運転手が自分達のために車を止めて待機してくれたからであり、そのことに対して感謝の意を込めて、渡りおえてから再び振り返ってお辞儀をしたのである。一寸した行為であるが旅人の目には新鮮でほのぼのとしたものを感じさせる良い光景であった。
また郷原町の目抜き通りの両側に建つ街灯には宗家の家紋が二つ、印されておりこの島の領主であった宗氏に対して今でも敬意を表している。学校でもこの家紋を校章に採り入れている学校があるという。よき伝統や習慣を守ろうとする町の人々の心が子供達のお辞儀にも現れているのかなと思った。
注 保存しておいた写真のファイルを間違って消去してしまったらしく、掲示できる写真のないのが残念である。
【旅行時期】2004/11/28~2004/11/30
【エリア】
長崎県
【テーマ】
【投稿者】
早島 潮
懐かしい対馬を訪れてー我が青春(by kakusanさん)
平成15年に対馬を30年振りに訪れた。まさしくタイムマシーンで自分の過去を振り返る旅となった。20代の若かりしあの頃が脳裏に甦り、懐かしさで一杯になった。昭和40年代対馬へ行くには貨客船しかなかった。当時の船は客室が左右に分かれ2等は船倉にあり異様な臭いが漂う貨客船であった。壱岐まで2時間半、その後対馬海峡を越え厳原まで2時間半かかり、時化た時はかなりの船酔いで座って本など見る余裕はなかった。今では高速船や飛行機で便利になったが、赴任した頃は国境の島にふさわしく本土への往復などは大変だった。本当に数十年が経った時代の流れを感じる。30年前美津島町の山を削っていたのは覚えているが、その地に空から降り着くとは考えてもいなかった。昔の同僚が迎えに来てくれ、懐かしさでお互いの時間が一気に昔に戻ったよう
であった。若かりし20歳代の話に盛り上がり、まずは万関橋に行き、浅茅湾を見に行くことにした。日本海に通ずる海峡運河の上島と下島間にかかるアーチ型の万関橋は三代目となっていた。峰町の烏帽子岳に登り浅茅湾を一望した。点在する島々やリアス式の入り江など見事な海、空、島や陸地の色合いのコントラスが映え、自然の美しさは見事で筆舌しがたい景観である。過去も現在も変わらない美しさを伝えてくれる浅茅湾である。烏帽子岳(豊玉町)の裾野にある海神神社の和多都美神社は海幸彦山幸彦の神話伝説や満潮時に鳥居が海中につかることで知られている。この近くに神話の里自然公園がありキャンプ場として利用できるようになっている。そこから烏帽子岳へは登る。豊玉町も当時は舗装されてなく、時間もかかり難儀だった。豊玉から下県へ向かう道路も整備されていて、飛行場から厳原までの幹線道路にはトンネルもでき時間もかなり短縮されている。都会と変わらない郊外型のスーパーやパチンコ店などが立ち並んでいる。何もなかった当時を知っているためとても違和感があった。本土化することが島に必要なことなのか疑問を感じる。海に囲まれ自然に恵まれているからこそ離島の価値があると思う。対馬の良さがなくなってしまったようで一抹の寂しさを受けた。昔の美しさが脳裏に残っていて残念な思いだ。車もあまり走っていなく、道路沿いに畑や小さな漁村など目にすることができた。次に美津島町に下った。文永の役元寇合戦跡の小茂田神社の浜は一変していた。護岸工事のためテトラポッドがずらりと顔をだし、元軍を迎え撃つ勇姿の碑とそぐわなくなっていた。小茂田浜から椎根川沿いに進むと、わずか数戸のみとなった石屋根の建物がある。対馬でしか見られない珍しい建物で、板状で屋根を葺いている倉庫の数が減っていた。当時はかなりの石屋根倉庫がまだ残っていてまさしく倉庫群だったが、荒廃が進んでいた。その後島を南下し、対馬南西端の豆酘崎を抜け、鮎が登れずに戻ったという鮎戻し自然公園を訪れた。自然の景観を生かしたレジャー公園となっていた。
久田を通り懐かしい旧厳原の市街へ入った。武家屋敷をはじめとして一つ一つの建物が頭に浮かび、自転車で乗り廻したのが昨日のような気がする。最後に万松院を訪れた。万松院は宗家の菩提寺であり、百雁木の石段が幽玄な雰囲気を醸し出し、その石段を登った所に宗家の立派な墓がずらりと並ぶ。対馬に赴任した日に訪れた所がこの万松院で感慨深さもひとしおであった。あの時の厳粛に心を引き締めてくれた空気が甦ったようだった。
対馬は最初の赴任地であり、今も当時の仲間達と交流があるこの対馬は第二の青春の地である。私が仕事の姿勢を学んだ地でもある。この対馬の旅は私の青春を辿る旅となり充分なノスタルジアを誘ってくれた。対馬の土地は変化しても私の心に三十年前の対馬がいつまでも残っている。あの冬の厳しい空っ風や雄大な自然の対馬は今も忘れられない。人情味溢れた対馬が私の心にいつまでも残りつづけてくれ、島の方のやさしさに感謝したい。 感謝